画集«MELALEUCA»

 

カッコつけずに普通に宣伝します。
まずこの飴田3時の画集«MELALEUCA»タイトル。
なんと私が16,17歳の頃に母親がハマったマルチ商法の会社名、そのまま拝借しています。(笑)調べたところメラレウカ(会社の方はカタカナにすると少し違うっぽい)は、植物の名前らしいです。細長い葉が多くて繊細な花を咲かす木みたいな庭とかに生やすやつらしい。だから表向きこのタイトルは植物の名ですと言えます。
そして表紙。カメラマンのマニマニウムさんに撮影して頂いた写真。全身黒い服に黒いヴェールを被った私がちぎれた紙切れをなんか大事そうに持っています。このクソ長い宣伝を読むぐらいならしっかり私のsnsで私の投稿する絵を見てる人だと思うんですけど、この紙切れ、見覚えありません?そう、木の根がうじゃうじゃ描かれてるあの絵です。私の絵は大抵題名とか無いのでアレとか呼ぶけど、あれは、過去の私をテーマにした作品でした。あの蔓延る根の脅威に囲まれてナイフとかいっぱい飛んで来てる中で中央に守られた、心臓の苺が乗ったケーキ。あの部分を表紙で持ってるんです。このテンション続きますよ。

さてページを少し捲るとまず手書きの文章が目に入ってきます。以下本文です。

メラレウカ。あなたは私より、この箱を選びました。
もう、とっくに壊れてしまっていた私たちは、ずっと早くから、こうするべきでした。
メラレウカ。あなたは私の母かもしれませんが、私を、あなたの子どもには、してくれませんでした。
メラレウカ。この箱が家に届いた時。
私は、私を閉じ込めていた家族という箱から、飛び出す決意ができました。
この本は過去になる。あなたは憶えているでしょうか。
別れた父の写真を、1枚も残さずに切り刻み捨てていた弔い方を、娘である私も継承します。
メラレウカ。私はここで終わらない。

この文章と共に隣にはあの絵をビリビリと大きく破く私の写真が。そしてページをめくる度に、絵はどんどんバラバラに破かれていきます。その様子をめちゃくちゃ素敵に撮ってもらいました。
私にとって本当にお葬式の様な撮影でした。
1呼吸ごとに私が描いた線が、絡まっていたものが砕けていく様を自分で破きながら俯瞰して見ている気持ちでとても心地良かった。まるでその俯瞰している自分が撮っているかのような写真が見れます。これはマニマニウムさんのパワー。
そしてその写真達と共に飴田3時として今まで描いてきた絵や文章を並べました。

本当にマジで走馬灯。

そして後半は是非本誌を手に取って読んで体感してもらいたいのであまり言えませんが、
最後に後書きを書きました。B3サイズの紙を半分に折ってページに貼ってあります。そこに後書き書いたので読んでください。あとそれめくると絵が描いてあるから、気付いてね。
このメラレウカに込めた想いの答え合わせになると思います。自分の呪いとの決着のつけ方、見せてやります。冒頭の文章も表紙もタイトルも、全て全て全て全て全て伏線回収してこの画集は幕を閉じます。
これらは飴田3時の超個人的な物語ですが、私が画集を販売し貴方が手に取ってくれるという事実が、私の作家としての人生に大切な1ページを刻むのです。

 

さあ貴方も、ご冥福をお祈りしてください。

 

https://booth.pm/ja/items/5638928

会った

さぁっと、体の温度が急激に冷めていく感じを、5年ぶりに感じた。23歳を目前にしたある日だった。

 

改札の前に、私の面影ある顔をした少女とあの女が立っている。

「こんにちは」

ぎこち無い挨拶で、2人の元へ歩いていった。

久しぶり、元気ぃ?とあちらも嘘の明るい声をかけてきた。返事をすると、ずっと会いたかったよ、ずっと…と言ってあの女はいきなり泣き出した。

シワが増えた気がする目元から、どんどん涙が溢れていく。その水量に合わせて、東京生活で柔らかくなっていた私の心が冷えて固まっていく。油粘土みたいなしっとり、ひんやりとした弾力のある塊から、思わず手を離したくなるような大きな氷へと変わっていくまでに、ほんの数秒しか要らなかった。

そう、私の心は豆腐やガラスでは無いのだ。冷たい粘土。氷になるときもある。バラバラになっても殴っても、傷をつけても、集めてコネコネしたり、冷やすことで、再形成される。

それは再形成の仕方を知っているからだが。そういう 保ち方 を育むきっかけを与えて来たのはきっとあの女だから、色んな意味で壊す本人へ感謝をしておくべきなのだろうか。

ひとしきり泣いて落ち着いたあの女は目をニコっとさせて近況を聞いてきた。少ない言葉で返事をする私に、その声を久しぶりに聞いたよぉと言ってまた泣き出した。

隣に立っている少女は沈黙している。まるで「この時間」を予想していたようだ。

この後少女と東京案内の約束をしていたので、あの女とはおそらく10分程会って解散した。

「じゃあまたね。元気でね。何かあったら連絡してね。嫌かもしれないけど、たまには帰ってきてね。」

そう言ってあの女は反対のホームへと歩き出した。会釈をすることしか出来なかった。

 

「この時間」私は17歳のままだった。心の冷え方が完全にそうだった。悔しい。

とても悔しい。私はあの女と離れて、歳をとって、沢山の人と知り合って様々なことを知って見て聞いて経験して、恋愛もして、やりたいことも続けて、大人になった気がしていた。離れていても前述のブログの通り、何度もあの女について考え事はしていたし、もし会った時のシミュレーションはしていたつもりだった。

でも何も時間は進んでなかった。

全然だめだったんだ、わたし。

まるで私が反抗期を拗らせて出て行った不良娘ってだけみたいじゃないか。泣いて優しい言葉をかけてきて、出て行かれた側の悲しさを存分に押し付けてきた。そこまでは予想出来ていた。私が1番悔しいのは、それに対して私は、拗ねているような少女丸出しで小さな声で、ボソボソと少ない言葉しか返せなかったことだ。完全にあの女のペースに飲み込まれてしまった。恥ずかしい。この5年間で随分柔らかくなっていた粘土の心を、活かせなかった。

あの女と私は、私が家出をした日付で時が止まっていた。そりゃあそうだ。距離を置くという事しかしていない。私達の関係の溝において、まだ何も進んでいない。

 



 

数日経って今、考えている。

あの女に勝つにはどうしたらいいか。今のところわかるのは、「諦める」ことだ。私には難しい課題である。あの女と真面目にぶつかろうとするから少女に戻ってしまうのだ。諦めて、あの女を こういう女 と思えたら、返事の仕方から変わってくるだろう。

あの女のペースに乗らず、期待せずに。

これからも親子ごっこをする気は無いが、少女を卒業して娘を演じることができたら、諦めの成功だと思う。

娘を演じに、そのうち戦場へ帰る予定だ。

私は少女の自分を守りたいし殺したい。自分を迎えに行かなきゃいけない。

 

この日心は氷になってしまったが、私の良いところで、それはいずれ溶けて粘土に戻る。今は粘土になって文章を書いている。

今回はこれがわかってよかった。

まだまだ私は戦えるし、前に進める。

ショッピングモール

大型ショッピングモールが嫌い。休日は夫婦、親子、家族でいっぱいで、みんな楽しそうで、賑わってる声がする。田舎育ちの私には、スーパーも映画館も服のショップもゲーセンもフードコートも何でもあるあの建物がどれだけ楽しい場所かはわかるけど。

洋服を見ているお母さんからはぐれると絶対探して貰えないから、迷子なった瞬間からお母さんを探すタイムが始まる。ファンシーな雑貨屋さんで同い年くらいの女の子がお母さんと買い物をしてるのを見た。これ可愛いねとか、これ欲しいなとか、お母さんと楽しくお喋りしながら歩いてる。凄く羨ましかった。お母さんを見つけて安心するのも束の間、まず怒られる。お前の為に出掛けてるわけじゃないから。これはお母さんの買い物だから。迷子になったのは私が悪かった。そこから人格否定が始まる。
そんなお出かけは楽しくない。それでも毎週休日は買い物に付き合わされる。
本当は友達と遊びたかった。学校で土日に遊ぶ約束をした。家に帰ってお母さんに許可を求めた。「お母さんとその友達、どっちが大事なの?どっちと遊んでる方が楽しいの?お母さん出掛けるけど来るよね?」お母さんは私が居ないと寂しいんだ。友達にやっぱり遊べないって電話をした。何回か同じことを繰り返したら、誰からも遊びに誘われる事が無くなった。
ショッピングモールで迷子になって、毎週毎週怒られるのがいやだったから、買い物してるお母さんの後ろをちょこちょこ着いて回っていたら、気持ち悪いから着いてこないでって言われた。じゃあ連れてこなきゃいいのに。ストーカーみたいにお母さんのギリ視界に入らなそうな位置からお母さん見失わないように店内を歩くことを覚えた。
雑貨屋さんで商品を見ていたら「お前が商品をじっと見てると店員さんに万引きと間違われちゃうから辞めてよね、捕まったら怒られるのお母さんなんだから勘弁してよ。」そう言われてから無駄に手のひらを開いて歩いたり店内で自分の鞄触るのもキョロキョロしたりしてしまう。勿論万引きなんかした事はない。成人した今でもレジ行く前に鞄から財布出す時とか、店員さんの前で財布出すだけですら盗む訳じゃありません許して下さいって思いながら動いてる。逆にキョロキョロして挙動不審なので怪しいと思う。ナチュラルに買い物が出来ない。いや出来るけど色んなこと考えながら買い物する。だから通販が好き。
上京してショッピングモールなんか行くこと無かったけど、時々誘われて行くことがある。未だに、油断すると過去の記憶が流れてきて家族とか見ちゃうと駄目になる。買い物するのも途中までこれ可愛いな〜とか思ってたのに急にわたし今怪しくないかな?商品買うか迷ってた動き万引きに見られてないかな?鞄からスマホを出す仕草怪しくなかったかな?とか色んなこと考えて駄目になって買い物断念することがある。難度も行ってどんな商品があるか把握した店で即決で買い物をするのが1番穏やかだけど、面倒臭いよね。ゲーセン大好きだけど、子供が多いゲーセンとか休日は特に1人で行けない。だから友達が休みにデカいゲーセンに一緒に行ってくれると凄く嬉しい。誰も私が迷子になっても怒らないし。
でも本当は怪しいって思われてるかもしれないし、迷子になった私にイライラしてるかもしれない。それでも私に優しくしてくれるの優しいね。

 

イルミネーション

 

明るい空が嫌いだ。よく晴れたおひさまの香り、暖かい空気。どこまで歩いても歩いても日陰に入らなければ付いてくる。逃げ場のない私の身体と、それを取り巻く空気の境目がはっきりとわかるのが、どうしようもなく孤独を照らされる気がしてしまう。
暗がりを好む私たちはきっと、その境目が曖昧になって溶けてゆく心地良さが好きなのだ。
この季節の夜は、どこもかしこも街がキラキラと電飾が眩しい。しかしこの明るさは不思議と受け入れられる。無理矢理照らされたそれらを、急いで永遠を誓った男女たちが眺めて写真を撮りまくる。そういう人達のために作られた嘘の明るさは、昼間の明るさとは違って私のことは照らさない。男女たちの間を縫って歩く私は、溶けて曖昧になったままの空気同然だ。
極めて視力の低い私は眼鏡を外して散歩をする。街のイルミネーションが、2重3重にもぼやけて見える。自分の手を明かりに重ねて見ると、指の間から漏れる光は私の手の輪郭を超えて重なってくる。ほら、このまま夜が終わらなければ私は誰にも見つからずに消えてしまえるのに。

母1、母2

2年前、

母1 - 無味無臭

母2 - 無味無臭

という記事を書いた。

私が母親の人生を“母親視点”でただ淡々と書き記したものだ。私が幼少から聞いていた母の言葉を繋ぎ合わせたものなので、記憶が曖昧で詳しく書けていない場面もある。
読者はほぼツイッターのフォロワーや友人等だったが、意外と感想を貰えて嬉しかった記憶がある。しかし拙い文章で申し訳ない。

この記事では初めて「私」が語っている。
私は、母親が嫌いである。それを自覚したのは15歳の頃だった。私は15年間も母親を慕っていたのだ。
私と母の関係は現在進行形で、母と母の母(祖母)と似たような関係である。

私は現在実家を家出し上京している。とにかく家から離れたくて県外に進学した母と同じだ。そして兄の話があり地元へ帰る事になった。それから母は色々あったが結局地元で結婚をし離婚、私と妹を連れて祖母と血の繋がらない祖父のいる実家へ入った。両親が離婚する前、母は親孝行をすると言って祖母とよく出掛けていることがあり、帰宅後祖母に対する愚痴を聞くのが私の役目だった。愚痴といえば、よく父親に対する愚痴も聞いていた。まだ保育園児だった私がお喋りだったばっかりに告げ口をしてしまい、私の所為で母と父は別れたらしい。後に母から言われた。
離婚後入った祖父母宅。母と祖母の関係は、同居する事でさらに悪化した。私は約10年間その板挟みになりながら思春期を過ごした。母と祖母は血が繋がっていながら嫁姑の様な喧嘩を永遠に繰り返し、私はどちらの言うことを聞くのかでその日その日の運命が決まっていた。何故祖母の事が嫌いなのに実家を出て行かないのかずっと疑問に思っていてある時母に聞いたことがあった。それが母の導火線に火をつけた訳だが、母1人の収入で私と妹を抱えて母子家庭は難しい、という事だった。それは分かる。私さえいなければ、せめてまだ小さい妹だけなら母と2人で生きていけるんじゃないか、離婚の事もあるし、私さえいなければ母の人生はもう少し良くなるんじゃないかと考え始めるようになった。今まで母はたくさん苦労をしてきたのに娘の私まで母に迷惑をかけてしまっている。母は可哀想、母を少しでも楽にさせてあげられるのは私しかいないと思っていた。

しかし私は中学生になり、ツイッターやネットの記事で初めて「毒親」という言葉を知った。そして自分の家族が恐らくそれに近しいものであることが分かった。暴力、新興宗教、他にも当てはまるものがあった。
いつも母の気持ちばかり聞いているので、祖母に母をどう思っているのか尋ねたことがあった。今まで母を散々振り回してきちゃったから、いくら喧嘩しても家から出ていけなんて言えない、どうせ(母)は私が居ないと生きていけないのよ、と言っていた。母と祖母の喧嘩が酷かった日、15歳目前の私は「他所に物件を見つけて私もバイトをしてお金を家に入れるから、妹と3人でここを出よう」と母に言った。その晩は母も乗り気な反応を見せたが結局次の日次の週になると、ネットにハマっていた私の生活態度がダラしないことに怒り、家出計画は無しそれどころじゃない、とあっさり消えた。ダラしなかった私も悪いが、家出計画の話はそれから何度もしたがその度に何か関係ない理由で計画破棄を繰り返していた。母は金銭的に余裕が無いことを盾にしていたが、私の生活態度に怒る割に母自身仕事をコロコロ変えたり引きこもったり、完全に祖父母宅に頼った生活をしていた。そうして段々、私の母に対する信頼が無くなっていった。母と祖母が共依存であることに気付いた。

 

長くなったがここまでが、私が母親を嫌うまでの背景だ。

 

私は今実家を離れて暮らしていて、家を出てからの2年間、1度も母親に顔を合わせていないし、連絡も事務的な物だけ返している。
しかし母の様に、何かをきっかけに会うことになり実家に戻りでもしたら、私の何かが崩れてしまうんじゃないかという恐怖がある。

母が実家を出たいのに出れない気持ちがわからなくもない。今親に頼らず生きてみてお金はかかるしフラフラ生きていると家が無くなる心配はあるし中卒だし就職も簡単ではない事を身を持って感じている。家族の毒に耐えてさえいれば衣食住を保証されている生活と、衣食住がどうなるか全て自己責任だけど解放され生きる希望のある生活を天秤にかけた時、私は後者を選んだだけだ。
私が家を出てから、母からは定期的に連絡が来る。実家で毎日顔を合わせていた時には聞いた事もないような優しい言葉が送られてくる。今の母はきっと、大切に育てていた娘に何故か突然出ていかれた哀れな母という気分だろう。怒鳴り散らしていた母の気配はどこにも無い。
私は今でも母から言われた言葉が忘れられないし母の事は嫌いだけど、でももしかしたらこんなに優しい言葉をかけてくれる母は、物理的距離を置くことで気持ちが変わって私を本当に大切に思ってくれているのかもしれない、という期待が少しだけ湧いてしまう。

私が恐れているのは、いざ母親に再会して関係が良好になりかけた時、どうせ数時間も話せば私の至らないところに目がつき母からは罵声が出る。今も続いている母と祖母のように最悪になるのが怖い。
それならばいっそこのまま会わずに、上辺だけの連絡を送り合うだけで会うことなく終わりたいとさえ思う。

しかしここで母親視点で文章を書いた理由に戻る。私が母親視点を使ったのは、母を理解したかったからだ。母がどうしてあんな言葉を放ったのか、どうしてあんな行動をしていたのか、あの記事を書いた後だと時系列に自分の気持ちと照らし合わせて少し分かった部分もある。そして今、優しい言葉のメッセージを送りたくなる気持ちも分かる。
家族と再会するのが怖いと言ったが、私は母にどんなことを言われても母を理解し受け止められるようになったら、初めて逃げずに母と対峙することが出来ると思っている。
母の人生を理解しようとする事は、家族と向き合う第1歩のつもりだ。


と綺麗事は言ってみたものの、今の所は母と対峙できる程のメンタルに到底及ばないし、母だってひとりの人間だし、過去の記憶だけで母の全てを理解するなんて無理だろうし、再会する予定はない。来世かな。いや来世でもあんな家族の元に産まれるなら生まれた瞬間殺して欲しい。
結局私の暇つぶしブログ記事、という結果で終わりそうである。また眠れない夜が来たら、私の考えが変わったら、更新する事だろう。

ではまた。

記録

0時シャワーを浴びた。何時もより体を丁寧に洗った。

2時コンビニに荷物を運ぶ。荷物の郵送を断られた。家に帰る。

3時 身支度を整えた。荷物を確認した。自分でバイトしたお金で買った物はほとんどカバンに詰めた。大好きな漫画達は荷物になるので置いていくことにした。

4時 家の近くのコンビニまでタクシーを呼んで荷物を抱えて駅に向かった。駅前のコンビニで荷物を郵送した。

5時 始発の電車に乗った。仙台へ向かう為、隣県の乗換駅まで2時間電車に揺られた。

7時 母からLINEが来た。「手紙読んだ。自分で決めた事なら、頑張れ👊😆」家を出てくる前、母の部屋のドアノブに手紙を貼ってきていた。

10時仙台へ到着した。もう家には帰れない。母からのLINE、私の決断を応援する口調と私を今まで育ててきた思いについてのメッセージ、母が泣きながら文字を打つ姿が浮かぶ。私はこの人を捨てることを、また決意した。

11時 同じ服の趣味を持つフォロワーの女の子と待ち合わせをしていた。東京行きのバスを待っている間、一緒にお茶をしたり服を見たり散歩をした。自分が家出をしている真っ最中だと打ち明けるのが申し訳ないくらい、楽しかった。

14時 女の子と、また会おうと約束をしてバスに乗った。

17時 東京までの道は長い。親がヒステリックにならなかった事が凄く安心した。これからの東京での生活を考えたら不安で全く眠れなかった。

21時 新宿駅に到着した。新居に辿り着けるのが翌日だったので、一晩泊めてくれるフォロワーが迎えに来てくれた。新宿駅、たくさんの人が早歩きで通り過ぎてゆく。私には新宿駅は大きすぎた。

24時 明日の新居への電車の乗り方を確認して、眠りについた。死んだように寝た。

 

 

 

 

 

 

 

全部全部黒歴史で人生がやっと始まったのか終了したのか、私には何も分からない

 

 

記録

おはようございます。

突然ですが、今日から東京で暮らすことにしました。

都内の女性専用シェアハウスを契約しました。人の家に転がり込んだり、誘拐などの事件性はありません。自殺をするつもりもありません。自分で物件を探して バイトの給料からお金を払って契約をしました。

それとこの間、今月の11日に通信制高校のスクーリングがあると言いました。欠席することと、学校にはもう行かないことを後で自分から電話します。またお母さんの方に電話が行ってしまうと思いますが、最後にするので、ごめんなさい。無視するか出るかはお母さんに任せます。(無視しても受講登録を欠席するので次年度の授業料を請求されたりなどは無いはず)

お母さんは中卒だと将来働きにくいとか仕事に就いても給料が少ないとか言っていたけど、それは本当にその通りだと思います。

それでも家を出たのは、お金が無い苦しさとか低学歴で人にバカにされる悔しさよりも、今までこの家で生きてきた18年間の方がずっと辛かったからです。